松下正治氏、経営の神様の陰になった人生

 パナソニック(旧松下電器産業)の松下正治名誉会長が16日未明、老衰のため大阪府守口市の病院で亡くなった。2カ月後に100歳の誕生日を控えての訃報だった。松下幸之助の娘婿として松下電器の2代目社長を務め、松下家の巨万の富を引き継いだが、一族と関係が深かった不動産会社、松下興産(現MID都市開発)が2005年に破綻し、相当の資産を失ったことを生涯悔やんでいたという。

株主から出ていた創業家回帰の声


今年6月の定時株主総会。正治氏は欠席した
 松下正治名誉会長は今年6月の株主総会で取締役を退任したが、ひな壇にその姿はなかった。あるOBはこう話す。

 「4月に開かれた山下俊彦元社長のお別れの会では、混雑前に会場を訪れ、献花されたと聞いた。総会前に体調を崩された。ただ、総会後には中村邦夫さん(相談役、前会長)が療養先を訪問し、総会について報告したと聞いていた。9月に100歳のお誕生日会が開催できると思っていたのに―――」。そしてしみじみ、こう加えた。「最後の総会での株主の声を、ぜひ、聞かせてあげたかった」と。

 今年6月の総会は、「松下電器―パナソニック」史上最悪だったのに、なぜか。8000億円近い最終赤字を計上しながら、大坪文雄社長(現会長)、中村邦夫会長(現相談役)が責任を取っていないと痛烈に批判する声が相次いだが、一方で「社名をパナソニックから松下に戻せ」「創業者の精神を回帰せよ」という株主の声が多く、「あの声を聞けば、少しは元気になられたかもしれない」というわけだ。

 正治名誉会長は、幸之助亡き後は松下家の象徴であり、長男の松下正幸氏(現副会長)の社長就任を心から望んでいたからだ。

 それがかなわなかった背景には、松下家の世襲批判があった。

松下興産破たんに苦しんだ晩年

 正幸氏が副社長に昇格した1997年、山下氏(当時相談役)が「創業者の孫だからといって社長になるのはおかしい」と公言し、正治名誉会長が「ファミリーだからといって(社長に)なれないのはおかしい」と反論、注目を浴びた。

 以来、創業家と経営の分離を唱える声が増えたが、“大政奉還”が実現するかどうかは、正幸氏の実力次第だった。

 だが1999年、正治氏の娘婿で、正幸氏の義理の兄が社長を務めていた松下興産の経営悪化が表面化、2005年に同社が破たん処理されることになり、松下電器、松下家ともに相当額の資金負担を強いられ、「創業家からの経営分離が決定的になった」(関係者)。

 このとき、松下家は、幸之助から引き継いだ松下グループ株を手放して資金を捻出したという。正治氏は近い友人に「90歳を超えてこのような目に遭うとは」と涙し、娘婿をうらんだという。

孫の今春入社がせめてもの慰めに

 正治氏は、名門伯爵家に生まれ、東大を卒業後、当時の三井銀行に勤務していたが、三顧の礼をもって松下電器産業に迎えられ、幸之助の婿養子となった。

 だが、小学校を中退して松下電器を興した幸之助の目には、名門然とした正治氏が物足らなかったという。正治氏は社長時代、経営戦略を打ち出しても、ことごとく幸之助に覆された。

 経営者としての正治氏は、偉大な創業者の陰にかくれて目立たず、義理の父に対する思いは複雑だった。経済団体の会合でよく正治氏の話し相手になったというある中堅企業経営者は、「正治さんは、『ぜったいに幸之助より長生きしてみせる』と話しておられた」という。結果として、幸之助より5歳長生きできた。

 松下家の影響力復活は、いまや遠い夢となってしまったが、今年春には自らの孫、正幸氏の長男がパナソニックに入社したことを、見届けられた。ささやかながら心の慰めになっただろうか。

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