成功者の顔は脳で作られる【9】松下は「運がええ」
戦後の傑物から学ぶ習慣

学徒動員で特攻沖縄線へ赴き、21歳で戦場の死地を生き抜き、卒寿に手が届く齢を重ねてきました。戦後の焦土で復興活動を行い、鞍馬寺に参禅し、達磨に心頭。托鉢、得度をして、沖縄で集骨と鎮魂にあたりました。
阪急電鉄、阪急百貨店、宝塚劇場を設立、東宝映画の創始者でもある小林一三氏と出会ったのは、沖縄での第一回集骨作業のときでした。このご縁を機に芸能界に携わり、さらに小林氏の紹介から松下幸之助氏の傘下へ加わることになります。
小林氏の紹介で、有馬温泉の宿で初めて松下氏にお会いしたとき、技術のことは何も分からないと言った私に対し、松下社長はこう仰ったものです。
「松下は運のええ奴が欲しいんだす。この男、沖縄の特攻から生きて帰ってきよったというこっちゃ。人間はやっぱり運や。松下電器は運のええ奴で固めまんのや」
松下電器の嘱託になった私は、松下氏の勧めで東京工業大の「委託研修学生」になりました。東工大で学んだ脳科学から、脳相学の創考を開始しました。ドイツ留学を経て、藤木研究所を創立し、松下中央研究所ほか多くの企業の新製品開発にあたると共に、観相学の科学的究明を行って、嘉祥流観相学会を設立しました。
この経過の中で、数多くの一流の人、松下幸之助、井深大、本田宗一郎、小林一三といった、戦後昭和を語るには欠かせない大人物との出会いに恵まれたのです。これらの人物と交流することで、彼らの功を成した思考や才覚が、日常的な習慣から生まれてきたものだと知りました。人間力を育てる習慣を戦後の傑物から学ぶことで、嘉祥流観相学会の慣習ができました。