バッジとペンを握って死んだ男

大阪では通じない東電会見

 日隅さんは、産経新聞大阪本社の社会部などで記者。退社後に弁護士として98年から東京第二弁護士会に登録した。大阪の社会部と言えば、新聞業界内では最も激しい戦場としても知られる。日隅さんが記者時代に培った戦い抜く力と、弁護士としての厳しい追求力は、東電の会見では際立っていたといっても良いだろう。


東電の記者会見、謝罪する当時の清水正孝社長(中)
 ただ、それと同時に気になるのが、全国紙などの記者の追求の甘さや、変な「気遣い」だった。こうした現象について、日隅さんが的確な分析をしていた。

 「東電のような会見を大阪でやっていたとしたら、おそらく怒号が飛び交うでしょうね。ふざけんな、お前がダメなら別なやつ連れてこい、連れてこないなら、俺が上に行くぞという風にね。自分も必ずそうだったです。それは、時代がそうさせたのか、西という文化がそうさせたのか」

 トップが迂闊な言葉など吐こうものなら、関西の記者は絶対に許さない。2000年の雪印乳業事件では、当時の社長が「わたしはね、寝てないんだよ」と寝言を言ったが、すぐさま言い返されてタジタジになったこともあった。この程度はまだ軽い方で、記者会見の恐怖でメンヘルになったトップまでいるという後日談も聞くほどだ。

 「東という文化は、自分たちは官僚に対して取材をしているということ。官僚は国を治めているし、(記者と)同士の存在。言うなら、東京のメディアは立派なんです。しかし、大阪はまさに市民の目線でモノを言うわけですよ。だから、舐められたことを言うと怒るのです」

 取材対象と記者が同士。しかし、本来は正しいとは言えない。

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