「セカチュー」片山恭一氏が玄海原発差止訴訟で意見陳述

 300万部超えの大ヒットとなった「世界の中心で、愛をさけぶ」で知られる作家・片山恭一さんが、佐賀地裁で7日行われた(九州電力)玄海原発差し止め訴訟の原告として意見陳述を行った。

 九州電力玄海原発(佐賀県・玄海町)は昨年の東電福島第一原発の事故以来、定期点検中であり、その後は再稼働されていない。片山さんは現在、福岡市在住。

 片山さんは8日自身の公式サイトで、その意見陳述書を公開した。まず自分たちの世代が、将来世代に大きなものを背負わせることへの後悔の念を述べている。さらには、使用済み核燃料の問題について話が及び、「いくらノーベル賞級の知性を結集したと言っても、私たちのやったこと、やりつづけていること、将来もやりつづけようとしていることは、間違いなく浅知恵です」と否定している。

 そして、自身がこの訴訟に参加した理由を次のように述べている(一部省略)。

 文学とは本来、人間の可能性を探るものです。人間はどのようなものでありうるか。小説は、それをフィクションという設定のなかで問うものだと、私は考えています。

 核エネルギーとともにあることで、私たちは人間の可能性を探ることができなくなってしまいます。なぜなら核廃棄物という、自分たちに解決できないものを押しつけるというかたちで、私たちは数万年先の人間を規定し、彼らの自由を奪ってしまっているからです。

 少なくとも私のなかでは、核エネルギーの問題を放置して小説を書きつづけることは、自らの文学を否定してしまいかねない矛盾と欺瞞を抱えることになります。これが原子力発電所の廃絶を求める裁判に、私が参加しているいちばん大きな理由です。

 自分はいかなる者でありうるか、ということをあらためて考えたいと思います。私たちが個人でなしうることは、一人の人間の身の丈を、それほど超えるものではありません。

 しかし私たちが「こうありたい」と望むことは、過去と未来を貫いて、人間全体を眺望しうるものです。そのような眺望をもって、自分の死後に生まれる者たちと、どのようにかかわるか、いかなる関係をもちうるか。それが生活や経済とはまったく次元を異にする、人間の自己理解の根本にある問題です。

 過去を健全に引き継ぎ、歪曲されない未来を受け渡していこうとすることによって、私は自らが望むべき者でありたいと思います。そして私たち一人一人の人間性を深刻に損なってしまう原子力発電からの速やかな離脱を、この裁判をとおして強く訴えたいと思います。


玄海原発(佐賀県HPより)

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