バブルのピーク、日経平均株価は3万8915円にまで上昇した。バブル期は不動産と共に仕手筋が活躍した時代である。田中は「兜町の帝王」と称された小谷光浩(コーリン産業・後に光進と改称)や、「兜町最強の仕手集団」と呼ばれた加藤暠(あきら)の顧問弁護士でもあった。
仕手戦のミーティングの模様
「株もバブルの頃と今とでは雲泥の開きがあって、当時はインサイダー取引がうるさくなかった。顧問をしていた仕手筋から『これは株価操作に引っ掛かりますか、特捜につかまる恐れはありますか』と、わしに法律的な意見を聞きにくる。彼らが扱う仕手株がわかるから、事前にその株を買えば大儲けに繋がる。今は厳しく規制されているが、当時はそれもインサイダー取引にはあたらなかった」
日本で初めて本格的なM&Aに成功したと豪語し、航空測量の国内最大手だった「国際航業」を乗っ取った小谷は89年当時、「東洋酸素」の株を買い占めていた。株仲間を集めこの先どう株を買っていくか、法律的な見地から意見を述べるため、田中も打ち合わせに参加した。トイレに立った小谷はなかなか戻ってこない。田中もトイレに向かうと携帯電話もパソコンもない時代、廊下の隅の公衆電話で受話器に向かって小谷がしゃべっている。
「東洋酸素を売ってくれ」