富裕層の「貧乏ごっこ」とは何か

 十分な資金的な余裕があるにも関わらず、あえて捨てる野菜を購入しようと交渉する力は、大人になってから身についたものではない。これは、子供時代から自然と、そうした環境を与えられて育んできたものなのだ。

 芦屋市のある資産家の次男は、高校・大学時代の財布の中身はほとんど、1、200円程度。1000円札以上入っていることさえ珍しかった(定期券と弁当があるため、必要はないのだが)。ちなみに、その家庭にはベンツが複数台止まっているのだ。時折、友人にジュースをねだるなどしてくる。親からは小遣いはもらっていないという。

 別の大阪市のある輸入業者の跡取り息子は、財布にはさすがにお札が入っている。しかし、買い物の際にレジでは常に「1円持ってない?」などと小銭を友達に出してもらうのだ。

 そもそも、親から小遣いとして与えられる金額は微々たるもので、子供社会の中でこうした交渉を体験的に身につけていくものなのだろう。

 大人となった現在、彼らが同じような行動を取っているのを見たことはない(見えないところで、そうした交渉力を発揮している可能性は十分あるが)。しかし、常に交渉をする場面を強いられ、たくましく生きていくすべを身につけているようにも見えてくる。

 こんなことをしなくても生きていけるという意味では「ごっこ」という表現は当たっている。「学習」として身につけており、自然に出ていると言った方が良いだろうか。

 こうした例だけ挙げると、単なる嫌な奴のようにしか見えないが、自宅のベンツの座席に乗せて送ってくれることもあれば、率先して気前よく奢ってくれることなど、恩義や人情はそれなりに忘れてはいないのも特徴だ。

 もちろん、そんな手間よりもお金で大切な時間を買うという価値観の富裕層もいるし、皆がすべてそうではないことは言うまでもない。

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