昭和シェル石油との合併計画が進んでいた出光興産に、まさかの横やりが入った。28日、出光の創業家が株主総会にて、代理人を務める弁護士を通じて、合併に反対を表明したのだ。
弁護士は、創業家は筆頭株主の日章興産などを通じて出光株の33.92%を握っており、合併などの重要案件を総会で否決できる立場にあるとしている。
創業家は反対の理由として、両社の企業文化や事業戦略に大きな違いがあり、合併しても相乗効果が得られないとしている。具体的な違いとして、出光には労働組合がないが昭和シェル石油にはある、出光はイランと親密だが、昭和シェル石油にはサウジアラビア国営のサウジアラムコが出資している、などを挙げている。
出光興産の創業と歴史
ここで理由に挙げられている「出光の企業文化」とはどのようなものだろうか。
出光興産は1911年(明治44年)、故・出光佐三氏が現在の福岡県門司市で創業した。戦前は満州など海外に進出し事業を拡大している。
戦後は海外の拠点をすべて失い、存亡の危機に立たされたが、「一人の馘首(かくしゅ)もならぬ」と従業員を誰一人解雇することなく、事業を立て直した。
敗戦から8年後の1953年(昭和28年)、それまでイギリスが利権を握っていたイランの石油を極秘裏に買い付けて日本に運んだ「日章丸事件」で日本だけでなく世界を驚愕させた。
「社員は全員家族である」とした佐三氏が行ったそのユニークな経営スタイルは「出光の七不思議」と呼ばれた。佐三氏は「日本人として育って、日本人として当たり前のことをやっているだけ」と語っているが、そのスタイルは日本人が見てもかなり独特だ。
1.馘首(解雇)がない
2.定年制がない
3.労働組合がない
4.出勤簿がない
5.給料を発表しない
6.給料は生活の保証であって労働の切り売りではない
7.社員が残業代をもらわない
その後の時代の変化に伴い、現在では残業代を支給する、そのための勤務時間把握の仕組み等は整えられているが、佐三氏の考え自体は受け継がれ、今も労働組合も定年もない。
株式を10年前に公開
佐三氏が社長を退任したのち、血縁が中心の世代交代を行っていたが、その後は創業家以外の社長が続いている。
2006年には東京証券取引所市場第一部に株式上場した。佐三氏が「金はないのに金はかかる」と呼んだ販売スタイルでありながら、「ほかの資本家の主義方針と出光のそれとは絶対に氷炭相容れざるものである(佐三氏の著書より)」とし、出光はそれまで一切株式を公開していなかった。創業家は上場に反対したそうだが、社長の天坊昭彦氏(当時)ら経営陣が説得した。
文化活動にも力を入れ、佐三氏が蒐集した美術品を展示する「出光美術館」を本社の最上階に開館しているほか、テレビ朝日系『題名のない音楽会』のスポンサーも務めている。「芸術を中断させてはならない」という理由から、番組本編の最中は一切CMを放送しない。
ほかにも東日本大震災の際は協賛を求められるも「出光の名前を一切出さないこと」を条件とし、テレビ局から「それではほかのスポンサーに説明ができないので、社名を出してほしい」と“頼まれて”出したなどの逸話がある。
「また創業家の人物が社長になることも考えられる」とはしているが、出光興産内には「創業家対策室」があるとされ、その関係には複雑なものが感じられる。
かつて株式公開に反対した創業家が、今度は株主総会の場で意見を表明するのはなんとも因果なものだが、出光と昭和シェル石油は時間をかけて合併に向け動いていただけに、合併は頓挫するのか、それとも創業家との折り合いをつけて予定通り進行していくのか、注目が集まる。