M&Aで巨額の損失「労務DD」の落とし穴

 会社の事業拡大で、M&Aを積極的に行っている会社も多いだろう。
 近年、会社に関する考え方も変わり、効率よく経営資源を入手できるということで、成長戦略の実現のためのM&Aが昔に比べ積極的に行われるようになってきた。


 一方で、元々は社風も企業文化も異なる別の会社である。統合には、一筋縄ではいかない部分もある。
 また、経営者も社風など「気づきやすい」ところには目を向けるが、問題になりやすいのは、気づきにくいところだという。

「意図的に気づかないようにしていたのではないか?」と思わされるケースもある。どういうことかを、日本最大級の社労士事務所である大槻経営労務管理事務所の代表社員、大槻智之氏に寄稿いただいた。

目次

1.狙われたM&A

「知らない未払い賃金が2000万円ありました」
 苦虫を噛み潰したような顔で話すのは、不動産会社を経営するTさん。「地方のアミューズメント施設を買収したとたん、その管轄の労基署の臨検が入った」とのことでした。

 Tさんの会社は東京に本社があり、不動産業の他に飲食業やフィットネスクラブなど様々な事業を展開しているそうです。経営拡大の手法としてはM&Aが中心で、今回は地方のアミューズメント施設を買収したということでした。
 順調な事業拡大に思えましたが、臨検の結果「買収前の未払い賃金が約2000万円」という事実が発覚したそうです。

 このアミューズメント施設は、この地方の不動産会社が所持していましたが、それまではこういった労基署による臨検が入ったことは無かったそうです。
「タイミング良すぎますよね? 我々が東京から来て、この会社を買収したとたんですから……」
 このタイミングで臨検が入ったことの真相は分かりませんが、「会社の急成長に合わせて急ぎ買収したのが裏目に出た」「見えるところだけでなく、労務についても調査すべきだった」とTさんから後悔の言葉が口をついて出ました。

“臨検”とは、労働基準監督署(以下、労基署)が行う臨検監督「労働基準法、安全衛生法などの法律に基づいて、定期的に、あるいは働く人からの申告・相談などを契機として、工場や事務所などに立ち入り、機械・設備や帳簿などを検査して関係労働者の労働条件について調査を行う」ことです。

 難しい言葉を用いましたが、要は「その労働条件は適切か。働く人に無理を強いていないか、のチェック」です。

 また、その際に法律違反が認められた場合には事業主に対して「改善を指導するほか、危険性の高い機械・設備などについてその場で使用停止など命ずる」行政処分を行います。

 なお、臨検には、以下のような調査があります。

①定期監督
 労働局の年度の監督計画に従って行う一般的な調査

②災害調査
 死亡や重大災害が発生した際に行う調査

③申告監督
 労働者の申告があった場合に行う調査

④再監督
 以前行った調査で、是正勧告した法違反が改善されているか確認するために行う調査

2.労務デュー・デリジェンスを忘れずに

 Tさんのようなケースは決して少なくありません。M&Aを行う際、法務・財務といったデュー・デリジェンス(企業の資産価値査定)はみなさん行うのですが、意外と忘れがちなのが、今回強くお勧めする「労務デュー・デリジェンス(以下、労務DDとします)」です。

 企業の買収や合併には、労務上の思わぬ債務が潜んでいます。労務DDは、買収対象企業の労務リスクを洗い出すことが目的です。
 労務リスクの多くはTさんが受けたものと同じく“未払い賃金”です。未払いとなってしまっているケースでは「そもそも労働時間を管理していなかった」「手当を時間外手当の単価に算入していなかった」「給与規程と運用が異なっていた」その他「固定残業の導入の仕方が間違っていた」など、様々な原因が存在します。

 別の会社のものゆえ、自社の運用と同じ感覚でチェックしていると見抜けないことがありますので、より慎重にあらゆる角度から検証する必要があるのです。

3.未払い賃金以外にもこんな落とし穴が!?

「1500万円もするのか!?」
 仰天したのはCDやゲーム、DVD等を販売する小売業を経営するSさん。SさんもM&Aで失敗してしまった1人です。
 Sさんが仰天したのは「パート、アルバイトの社会保険料」の額です。Tさんと同じく、買収してほどなくして年金事務所の調査があり、パートやアルバイトの未加入が発覚、合計60名が2年間遡及して加入することになったのです。

 例えば、毎月15万円稼ぐパートタイマー(40歳未満)の社会保険料は、1月で健康保険料が14940円で厚生年金保険料が27273円になります(平成28年9月現在)。
 保険料の時効は2年間なので、支払う額の最大は24か月分の約100万円になります。保険料は会社と社員が折半ですので、数字上は双方約50万円の負担となります。

 月額15万円の給与のパートが30人、2年間遡って社会保険に加入すると、純粋な会社負担は1500万円かかるということです。
 さらに、被保険者から回収できないような場合でも会社には保険料の納付義務があるので、社員の分も合わせて保険料を納めなければならないのです。
 
 Sさんは後日「年金のことは一切考えていなかった」と言いました。こうした社会保険に関するところも、買収をする前にしっかりと検証しておきたいところです。

4.その後の扱いでも負担増になる場合が!

 会社が合併する際には「労働条件の差異を統一」する作業を行わなければなりません。理想としては、合併する前に進めておきたいところですが、そうもいかないことも多いでしょう。
 労働条件の際を埋める過程で問題になりやすいのが①労働時間・休日、②管理監督者の範囲、③退職金といったところです。

 ①については、例えば、1日の労働時間が7時間のA社と8時間のB社が合併し、所定労働時間を8時間に合わせた場合、Aの社員は従来よりも労働時間が1時間多くなるので、現在の基本給に1時間分をオンするなど見直す必要があります。

 また、それに伴い、時間外手当の単価も上昇するわけです。こうなった場合、A社とB社の給与水準に格差がなければよいのですが、A社とB社のバランスが悪ければさらに調整をせざるを得ないでしょう。

 ②はもっと深刻です。労基法41条に定める「管理監督者として扱う範囲」にズレが見られる場合にも調整が必要になるからです。
 例えば、A社が課長職を管理監督者として時間外勤務手当や休日手当の対象外としており、B社では管理監督者としていないようなケースでは、(ア)A社の課長を一般職として扱う。ただし、この場合は必要に応じて時間外勤務手当や休日勤務手当を随時支払うことになる。
(イ)B社の課長を管理監督者とする。ただし、この場合は、B社課長をA社課長の水準に引き上げることも検討しなければなりません。

 また、全体の割合が過多であるような場合では、「管理監督者」としての取扱いが否定されることも考えられます。同じ課長でも、職務権限などが異なっていれば新たに設計をし直すことも可能ですが、いずれにしても給与の見直しは必要となりそうです。

 ③についても要注意です。例えば、買収前の会社が過去に退職金の支給水準を大幅に引き下げていたようなケースです。
 その際に「個別の同意をとる」といった適正な手続きをしていないような場合には、いざ退職者に退職金を支払う段になって、労使紛争に発展するようなケースもあるのです。

5.おわりに

 昔から経営には“ヒト・モノ・カネ”が欠かせないと言われていますが、M&Aでは“ヒト”に関することが忘れがちになっているようです。


大槻智之氏
 特に賃金をはじめとした労務トラブルについては「発生して初めて気が付いた」という例が少なくありません。
 合併直後にこのような労務トラブルが発生すると、それに対する想定外のコストがかかるだけではなく、労使関係がギクシャクするなど生産性に大きく影響するようなことも考えられます。

 また、その解決に相当年数を費やしたような事例もあります。
 M&Aに伴う労働条件の変更がきっかけとなり、社員の中でたまりにたまった不満が爆発し「労働基準監督署に申告する!」というケースもあります。

 法務や財務に加えて労務DDを、そしてできることならば労働保険、社会保険まわりの事前検証を実施することを強くお勧めします。

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