遺産7500億円の富豪、ピカソが唯一手に入れられなかったものとは?

 世界でもっとも有名な画家の1人、ピカソ。画家としての成功と同様に、事業家としても大成功した。彼の死後、その遺産の評価額は、日本円にして約7500億円にのぼったという。

自分と作品の価値を高める天才、合法的にタダで買い物も

 ゴッホのように、生前は評価されず、死後にその作品が高値で取引されるようになる画家は多いが、ピカソは存命中に非常に成功した画家だ。
 ピカソが卓越していたのは、マネーとは何かをよく理解していたことだ。多くの画家が貧困にあえぐのは、実は商材である絵の売り方を知らないことが大きい。エピソードをいくつか紹介する。

 ピカソは自分の絵を販売することに関して天才的な才能を発揮した。彼は新しい絵を描き上げると、なじみの画商を数十人呼んで展覧会を開き、その作品を描いた背景や意図を細かく説明したという。
 モノがあふれている現代、「モノより思い出」という車のキャッチコピーが多くの人の心をつかんだのは1990年代も終わりに近い頃だが、それよりも半世紀以上前にピカソは、人が何にお金を払うのかを理解していた。

 モノではなく思い出を得るために車を買うのと同様に、人は作品ではなく、作品の裏にある「物語」を買う、と彼は知っていたのだ。
 さらに、一度にたくさんの画商が集まれば、自然に競争原理が働き、作品の値段も吊り上がる。そして高値で絵を売ることに成功していた。

 ほかにも、マーケットを歩いているときにファンと名乗る女性に話しかけられ、小さな絵を描いてほしいと頼まれて30秒ほどで描き上げたのち、「100万ドルです」と言ったという逸話もある。
「30秒しかかけていないのに!?」と驚く女性に「30年と30秒ですよ」と彼は答えた。30秒で描くために、これまで30年の歳月を費やしてきた。ピカソは、自分の作品に対する価値の重要性を認識していたのだ。

 そのようにして自分や自分の作品の価値を高めていたピカソは、買い物の際に現金ではなく小切手を使っていたという。
 小切手を受け取った店主は、小切手を銀行に持ち込んで換金することはまずない。なにせ超有名画家、ピカソの直筆サイン入りだ。店主はその小切手を大切に保管しておく。将来オークションに出せば、売った商品の値段どころではない高値になるかもしれない。店に置いておくだけで、その小切手見たさに客が訪れることも期待できる。

 その結果、ピカソは現金を支払うことなく、実質的にタダで買い物をすることができたわけだ。

ピカソとシャガールのライバル関係

 お金についてよく理解し、画家としても、経済的にも大成功、7万に及ぶ作品を残したピカソだが、1つ手に入れられなかったものがある。ピカソはパリを拠点の1つとして活動していたが、フランスが国としてピカソの作品を購入することはなかった。

 フランスがひいきにしたのは、ピカソの8歳年下、ユダヤ系にルーツを持つロシア出身のシャガールだ。当時のフランスの文化相、アンドレ・マルローはシャガールを支援し、存命中からシャガール美術館を建設したりした。
 それを快く思わないピカソはシャガールに嫉妬していたという。シャガールもピカソの作風に対しては辛辣な言葉を残すなど、仲が良くなかったことを感じさせるエピソードがある。日本の美術関係者がピカソとシャガールの共同の展覧会を企画しているとピカソの子孫に話したところ「そんなものができるわけがない!」と言われたほどだ。

 その「できるわけがない」が実現した。箱根のポーラ美術館の開館15周年記念展「ピカソとシャガール 愛と平和の賛歌」は、同時代を生きた2人の作品を「愛」と「平和」の2つのテーマに沿って展示している。
 美術館所蔵作品のほかにも、ピカソとシャガールの両家から貸与された作品も展示される。まさに世界初の展覧会だ。



 2度の世界大戦に翻弄され、その影響は作風にも強く感じられる。まただからこその「平和」をテーマとした彼らの作品には力がある。

 ピカソの有名作品「ゲルニカ」と、シャガールの「平和」のタペストリーも展示されている(ゲルニカの展示期間は5月11日まで)。

 大戦で荒廃したフランスの「職人の技術を途絶えさせてはいけない」という思いから制作された作品だ。
 間近で見るこれらの作品は大迫力。箱根の奥まで足を運ぶ価値のある作品たちだ。


レストランでは展覧会、15周年の特別メニューも提供

参考文献、記事

・なぜゴッホは貧乏で、ピカソは金持ちだったのか? 山口 揚平著 ダイヤモンド社
7 Ways To Find And Unleash Your Inner Creative Genius

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