2度目の退学
他の子供が学校で勉強をしていた時、楊さんは自分の趣味に夢中になっていた。それは他人のコンピューターを組み立てたり、HPを制作したりして稼ぐことだった。その2年後の1998年末、15歳の彼はそれで稼いだ資金をもとにネットカフェを始めた。人生初の起業後、再び学校に戻り学業を続けた。
だが、1999年、突然交通事故に遭い、コンピューターの天才は生命の危機にさらされた。彼はやむなく2回目の退学をすることになる。
「この時の時間が、私のその後の人生に大きな影響を与えています」と楊さんは答えている。病院の床に横たわりながら、彼はこの先の人生の計画を考えた。それは、英語を学んで留学し、卒業後は自分の好きなネットゲーム業界で働くというものだった。
だが、事は思い通りには進まなかった。突如中国で新型感染症SARSが流行し、出国計画は立ち往生してしまったのだ。そんな時、あるゲーム会社がネット上で楊さんがプログラミングしたゲームを見つけ、高給で開発責任者にならないかと声をかけてきた。再び退学し、北京でゲーム開発者の道を歩み始める。
当時、ゲーム開発の人材が不足していたというものの、20歳になったばかりの楊さんは同時に3つの会社の技術監督や顧問を担い、多くのゲームプログラミングを行うことになった。
