偏差値30から、年収3000万円を実現するには【2】

 発売5カ月で8万部を突破した「バカでも年収1000万円」(ダイヤモンド社)の著者、アライブ取締役の伊藤喜之氏は、自らを“バカリーマン日本代表”と呼ぶ。偏差値30、学歴やスキルがなくても、年収1000万円を実現させた伊藤氏の、おバカでも年収1000万円どころか3000万円も夢ではないという「バカ6大奥義」、そして奥義が生まれたユニークな過程を紹介する。◆第一回目はコチラ◆

就職活動は1社限定の一発勝負

――過酷な待遇で辞めようとは思わなかったのですか。


伊藤喜之氏
 よく半年も持ったなと今になると思いますが、そもそも軟式テニスにプロがあると信じ込んでいたくらい、思い込みが激しいというか、ものすごく視野が狭いんですよ。高校時代にテニスが辛くなり逃げたくなった時も、この道から外れたら生きる道がない、と信じ切っていましたし、バイトも自分を雇ってくれるのはそこしかないと思い込んでいたんです。

 最終的に大学3年から卒業するまで1年半働きましたけど、月給1万円が半年ぐらい続き、その後も3万円までしか上がりませんでした。社長はそのままアライブに就職するだろうと思っていたようですが、さすがにこの給料じゃやっていけないと僕でさえ気づき、別の会社に就職しました。

――就職活動はどのような状況だったのでしょうか。
 とりあえずどこでもいいから就職しないといけないと思って、一発勝負で小さな商社に面接しました。就活は全然しないで、この1社だけ受けてそのまま入社したんですよ。履歴書も鉛筆で書いて面接官に怒られたくらいです。大学の就職課さえ行ったことがなかったです。

 とはいえ、面接は余裕だったんですよ。高校時代に何をやったかと聞かれたので、軟式テニスの厳しい経験、楽しい経験、テニスでなぜ勝てたかなど事実をありったけ話しました。他の学生はアルバイトの経験程度の話なので、バイトとテニスの真剣勝負じゃ比較にならなかったようで、面接が功を奏し入社が決まりました。

 車のホイールを扱う商社でしたが、営業で入って、ここでも「俺いけるぞ」とまたもや思い込んでいたんですが、3カ月経ったころ「明日からスーツを着てこなくていいよ」と言われたんですよ。理由を聞くと「とりあえずお前は工場で出荷しろ」と。

 最初の3カ月は同行営業という形で回っていたんですが、そこでダメだと判断されていたようですね、知らない間に。同期は営業のままでしたが、僕は工場でひたすら段ボールに商品を詰めて配送しての繰り返しです。それを1年ぐらいやりましたね。

 さすがに工場で出荷を命じられたときは、これはやばいぞ、このままでは終わりだと思いました。どうしようか考えていたときに思い立ったのが、大学時代から趣味でやっていた音楽イベントでした。とはいえ、「今度の土曜日にあそこでイベントやるので来てよ」と友だちに伝える程度のものでしたが、会社では本当にやることがなかったので、イベントでなにかやってみようかと考えたんです。

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