逆転の発想

 スイスにある寄宿舎学校ラ・ガレンを、丸3年過ごしたところでひと区切りつけたのには、ある理由がありました。

 すなわち、ガレンがとても小さな規模の学校であったこと。はじめのうちはその特徴が長所として生き、教師やスタッフの目がよく行き届いてお世話もきめこまかく丁寧にしてくれる良さにつながったのですが、年月を経て、桜と楓が予想以上のペースでぐんぐん成長し非常に伸び盛りの時期を迎えたとき、ガレンの規模の小ささが、学業面でも、お友達との活動面でも、もの足りなくなってしまったのです。そこで親としては、より大きな器となるべき受け皿(学校)を新たに見つけてやる必要性を痛感したことが、最大の理由でした。

 我が愚娘たちをそこまで伸ばして下さったガレンの力は、本当に偉大だったのだと言えます。ガレンでは、規則正しい生活の中で、毎日課されるホームワーク(宿題)を放課後もプロの教師が指導してくれたり、スポーツやお稽古事に思う存分チャレンジさせてもらったりしていました。

 桜と楓はガレンにいたお蔭で、毎日机に向かってコツコツお勉強する習慣と、あらゆるスポーツをそつなくこなす体力や持久力が、よく身につきました。これらは、その後もずっと彼女たちの強みとなって、進学する先々でハードな学校生活をへこたれず円滑に送る一助を為しています。ガレンは、あの年齢(6歳と5歳)で留学するにはもっとも適した学校であったと、今でも私は信じているのです。

 「次に進学する学校をどうするか?」 桜と楓が9歳と8歳になったとき、この課題を突きつけられた夫と私が、成長に見合った規模の受け皿をさがすことと並んで重要視したのは、言語の問題でした。

 ここでちょっと解説を加えておきますと、スイスでは地域によって、ドイツ語・フランス語・イタリア語・そしてごく少数の人たちの間でロマンシュ語が、公用語として使われています。

 ラ・ガレンは、フランス語圏に位置していました。とはいえ、インターナショナルスクールの名の通り、生徒の中には地元のスイス人はほとんどおらず、ヨーロッパ圏内やロシアからやって来たボーダー(寄宿生・寮生)が大半を占めていました。ボーダーの中には、英語が母国語であるイギリス人やアメリカ人、フランス語が母国語であるフランス人の生徒が含まれていましたが、全体の人数に占める割合は多くはありませんでしたし、年齢が小さかったので、ネイティブスピーカーではない生徒も気後れせず溶け込むことのできる人間関係が、子どもながら見事に築かれていました。

 ガレンでは各学年毎に、授業が英語で行われるイギリス式カリキュラム(ブリティッシュセクション)と、フランス語で行われるフランス式カリキュラム(フレンチセクション)の、2つのクラスが設けられていて、入学する際に、どちらかを自由に選択できます。桜と楓は、あとあとの進路を考慮し、ブリティッシュセクションにしました。

 しかし、ブリティッシュクラスでも、外国語の必修科目としてフランス語(反対にフレンチクラスは英語)の授業時間がかなりたくさん配されていました。また、放課後や週末は、寄宿舎で、フランス語を話すスイス人スタッフが常に身近にいてこまごまと面倒を見てくれましたので、フランス語に触れる機会はとても多かったのです。

 「1年もいれば、フランス語も上手に話せるようになるわよ」と、校長夫人のマダム・メアンがやさしく微笑みながらおっしゃったのを、私は当初、半信半疑で聞いていました。けれども、本当に1年後には、「あの言葉はうそじゃなかった!」と実感する羽目になります。

 そんな特殊な言語環境で3年間過ごし、娘たちが英語とフランス語をうまく切り替えて使えるようになるにつれて、足りないものがあることが気にかかりました。それは、「日本語力」でした。

 娘たちはスイスに留学中も、学校が長期休暇になるたび自宅に戻って過ごしていたため、1年のうち通算5ヶ月分くらいは日本にいました。つまり、「英語/フランス語環境と、日本語環境とを、(混ぜこぜにするのではなく)それぞれメリハリよく切り替えて、いずれかの言語にどっぷり浸る生活」が交互に与えられていたことになります。そのせいか、日本語で「話す」ことは問題なくできていました。しかし、「読む」ことと「書く」ことを、系統的に補わなければならないのではないかと感じました。

 「この辺でいったん日本に帰して、日本語の読み書きを学ばせた方がいいかもしれない」と、夫と私の意見が一致しました。そこで、次の進学先の候補として、とある日本のインターナショナルスクールが、にわかに浮上したのでした。その学校では、通常の授業は全て英語で行われますが、エレメンタリー(小学校)はどの学年も毎日1コマずつ、英語が話せる日本人教師による日本語クラスの授業が必修となっています。ミドルスクール(中学校)に上がるとフランス語を選択できる点も魅力でした。

 決心したら、あとは行動あるのみ。2004年1月、冬学期の始めに、いつものように娘たちをスイスに送った帰途、関西空港に到着したその足で、夫と私は神戸にある歴史の古いインターナショナルスクールに直行しました。その年の秋から始まる新学年に転入できるかどうか、アドミッションオフィスに相談するために。

 「母国語を身につけてから外国語を」としばしば言われる順序とは、180度逆転の発想で、まず先に外国語の方から入った娘たちでしたが、スイスから帰国時、2人はまだ9歳と8歳。言語習得の臨界期には未だ至らず、スポンジみたいに旺盛な吸収力を保ち、母国語の読み書きを身につけるのに十分間に合う年齢だと考えたのでした。

 あれからさらに6年が経過した現在、我々の判断は適切であったと確信を深めています。娘たちは、英語とフランス語と日本語を、年齢相応なりの表現ではあるものの、状況に応じて、実に器用に切り替えて使い、複数の言語を混同することはありません。あたかもそれぞれの言語が、別々の引き出しに整然と収まり、必要に応じて無意識のうちに単独で素早く取り出されているみたいに。私にはそう感じられてならないのです。

 以上のような経緯から、低年齢でのスイス・ボーディングスクール留学が我が家にもたらした言語教育面でのメリットをまとめてみますと、概ね、以下の3つになります。

●一話者=一言語のメリット:娘たちに接する大人はみんな、それぞれ一言語のみを用いてきました。学校でも家庭でも、1人の話者が、2つ以上の言語をかけ持ちで教える必要がありませんでした。そのおかげで、イギリス人は英語を、フランス人はフランス語を、日本人は日本語を、などという区別が、理屈ではなく感覚的にはっきりと刷り込まれて、前述したような瞬時の言語の切り替えを可能にしているのであろうかと、私は勝手に推測しているのですが……?
●ネイティブのメリット:母国語も外国語も、各言語のネイティブスピーカーによる働きかけが可能でした。
●家庭におけるメリット:私ども両親は、娘たちが生まれたときからずっと一貫して、日本語のみで接するよう、徹してきました。英語は英語話者に、フランス語はフランス語話者に、役割をゆだねられた賜物だと思います。

よかったらシェアしてね!
目次
閉じる