『開成番長』が語るギャンブル漬け人生【1】

俺が落ちたら一体誰が受かるんだ

 元来、調子に乗りやすい僕は、良い成績を出して塾に通いたくなった。親からの押し付けではなく、自分の意志で行きたいと思ったことが大きかったと思います。

 でも僕は決して、勉強が好きだったわけじゃないんです。成績がよかったので、親におだてられて『やってみるか』という気持ちになったことは確かですが(笑い)、好奇心が旺盛だったので、自分がどれぐらいできるのか試してやるって意識が大きかったんですね。最初に成績がいい状態で入ったおかげで、新しいものを学ぶのが楽しいという、良いスパイラルができて、塾通いがとても面白かった。
塾で自分が教える立場になって学んだことですが、僕とは逆の悪いスパイラルで塾に入る子も多くいます。そういう場合、どこで転換させるかが重要なんです。親はどうしてもいいスパイラルに変わってほしくて、ついガミガミ言ってしまいますが、それは逆効果。うちの場合は親がうまくリードしてくれたのがよかったなって思います。

 小学4年の夏に「TAP」から独立する形で「SAPIX」ができることになり、入室試験を受けてみることにしました。結果はなんと総合成績1位。こうして「SAPIX」に移籍することになりました。

 「SAPIX」の指導方針は、徹底した復習主義でした。記憶を定着させるためには徹底した復習が欠かせません。「予習に時間をかけるなら、その分の時間を復習に割くべきである」という方針は、今の自分の考え方の基礎になりました。

 「SAPIX」に移ってから、ますます塾が楽しいと感じるようになりました。復習中心の学習法、生徒を飽きさせずに勉強させる工夫などで、着実に力をつけることができたんです。小学4、5、6年と「SAPIX」で3年連続1位を保ち続け、「SAPIX」がテレビで特集されることになったとき、現「SAPIX」(株式会社ジーニアスエデュケーション)社長である奥田(喜文)先生から「繁ちゃん、やってみないか」と言われてテレビ出演しました。1日の生活を密着取材するという内容で、母親は嫌がっていたみたいですけどね(笑い)。

 開成中学入試は1992年2月1日。この日、都内は記録的な大雪で、試験は翌日の2日に繰り越しとなりました。すると2日未明に、都内で震度5の強い地震が起こりました。そのせいで、早い時間に目が覚めてしまい、そのまま眠れないまま朝を迎えました。

 いろいろなハプニングに見舞われながらも、当日は全力を出し切ることができました。それでも自信なんてまったくありませんでしたよ。ただ「SAPIX」でずっとトップだったので、僕が落ちてしまったら一体誰が受かるんだという自負と、トップの僕が落ちたらどうしようというプレッシャーが入り混じった状況でしたね。

 中学受験を終えた繁田少年の結果は、1月の市川、2月の開成、筑波大付属駒場、慶應、3月の灘と受験校のすべてに合格。難関校をオールクリアした繁田少年は、尊敬していた父の母校である開成中学を選びました。
 
 次回も引き続き、繁田氏のインタビューをお送りします。

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