「もし将軍になっていたら速攻で大政奉還していた」
徳川将軍家・慶喜家略系図
〇内は将軍職、―は実子、=は養子
「慶喜公は大正2年に亡くなられているので、会ったことはありません。亡くなった伯母の高松宮喜久子妃殿下は、慶喜公に抱かれている写真があります。」
―世が世なら将軍様ですが。
「もしまだ江戸時代が続いていて、将軍になってしまったら。慶喜公のように、私は速攻で大政奉還していたでしょうね(笑)。政治や権力に全然興味がないんです。全国民の責任を負うのは大変だし、将軍は始終誰かに監視されて、食べ物も毒味が終わった冷めたものしか食べられません。それよりは、今の自由な生活の方がずっといい。」
―徳川家の資産はどのくらい相続しているのですか?
「父は徳川家、母は会津松平家出身で、2人とも裕福な家庭に育ちました。しかし私が生まれた時点では徳川家の資産なんてほとんど残ってなくて、私はただの庶民。ずっと一般的なサラリーマンでした。何も知らない人には、相続した莫大な財産があると思われたりもしますが…。あと徳川埋蔵金などとテレビで放送されたりしますが、そんなものはないと思います。
江戸時代に慶喜公は将軍という高い地位にいたため、明治新政府にそっくり資産を取られてしまいました。かえって地方の大名の方が、財産がそのまま残って、子孫は今でも資産家だったりします。慶喜公は明治になってから公爵の地位を与えられ、東京・小石川の小日向第六天町に3000坪ほどの屋敷がありました。しかしそれも戦後、莫大な税金を課せられて手離すしかありませんでした。」
―そのお屋敷に住んだことは?
「私はありませんが、両親はそこに住んでいました。母は小さい頃からずっとお姫様のように育てられて、料理もしたことがなかった。だから戦後に小石川の屋敷を出た後は、かなり苦労していました。自分で家事をするようになったのもそれからですから。でも、元々資産家だったのが没落していくより、生まれた時点で普通だった方が幸せではないでしょうか。私は普通の庶民に生まれて良かったと思っています。」